DESIGNWORKS Vol.03
5/36

ョセフ・パクストンと鉄道技師のチャールズ・フォックスのコンビで作られました。この建物は同一部材の反復使用でつくられていて、その部材は当時新しく出来たビルディングタイプである工場で生産され、産業革命の基盤となった鉄道によって現地まで運ばれました。プレハブという新しい生産システムによって9ヶ月間で建設され、コストダウンもできる。現在の社会システムというか風景が構築されるシステムが、あの建物一つにすでに集約化されています。この時代はちょうど、写真が普及するころなんですね。コロジオンという複製化の精度の高い写真ができるのが同じ頃なんです。クリスタルパレスと写真の両方に共通するのは量産化ということで、全く同じパーツを多量に作って、その建物自体も複製できる。———その量産化というものを軸にした社会システムによって、現在の風景もつくられているということですね。飯島 現在は風景がフラット化していく大きな過渡期にあって、数年単位での風景論を話してまた5年後は別の話をするのか、あるいは最初からその先を見越しての話をするのか、そのどちらを選択するかで風景の解釈も変わってきます。先を見越すのなら、風景というコンテクストを頼りに設計することに有効性はあるのか疑問です。その時々のコンテクストに依らずにデザインは構築できないのか。グローバルシステムの中で、デザインの希望とか可能性とは何なのかを考えながらやっていかないと、私は結局はダメだと思うのです。コンテクストに頼りすぎると、そのときすごくシャープで作品自体の価値は高いのかもしれませんが、後で結局何だったのかみたいな話になってしまうかもしれません。何かもっと大きな枠組みの中でデザインというものを捉えなければいけないと思います。過渡期の風景だけを断片的に捉えていくんじゃなくて、この風景はどうしてこういう風に変貌したんだろう、将来どうなっていくんだろうという長いスパンで考えていかないといけないと思います。5年から10年くらいのショートスパンで考えていけば、MARUWA瀬戸寮の山々を繋ぐ軸と町並軸との交差があるというコンテクストを使っての設計手法は極めて有効だと思うし、いろんな在り方があるんじゃないでしょうか。ただ、山だっていつ開拓されてしまうか分からないわけです。何をもって普遍とすればいいのか分からないところがあって、難しいですよね。———郊外と違い、東京のような都市ではストリートが生む土地の価格によって街がつくられているところがあります。建物は建替えられても、銀座通りのようなストリートの存在は普遍だろうという不思議な現象がありますね。飯島 それは説得力がありますね。ストリート性みたいなものを一つの約束事というか、信頼できるコンテクストととして読み替えるのは面白いと思います。しかし一般的にはやはり、風景の中に信じられるコンテクストをなかなか見出せません。将来どうなるか今見えないからです。その中で設計しなければいけない設計者は大変だろうなと思います。何を頼りにそこに設計するのかということになりますから。極論としては篠原一男さんのような普遍性、何が来ようがその建物だけはオブジェとして自立するといった建築としての自立性の議論が出てきてもおかしくない状況にあります。それからコールハースのように政治や経済を分析しながら独自の都市論を展開していくという、その時々の権力に自分を合わせていく戦術もあります。———その両極端である篠原さんもコールハースも、実際その作品がつくる風景としてはアンリアルではないでしょうか。飯島 そうですね。その中で誠実な建築家たちは、現在の風景の結び目を探し出してそこにデザインのきっかけを見つけ出そうとしています。残されたものと新しくできてくるものが衝突して不思議な風景ができているところに、どうやってデザイナーは希望を見出すのか。その点で言えば、この郊外におけるMARUWA瀬戸寮の回答はひとつの誠実な方法なんじゃないかと言えますね。一方でスターアーキテクトの作品はどんなローカルなコンテクストでつくったとしてもスタイルは共通させておかないと、一種のブランドと同じで商品にならない。ある時代を短いタームで切り取ると、そういうスタイルが世界の風景を作ってしまうということもあります。難波交通警察官詰所MARUWA瀬戸寮写真:加藤 敏明写真:古川 泰造Interview

元のページ  ../index.html#5

このブックを見る