DESIGNWORKS Vol.03
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中庸とオリジナリティ———今回の掲載作品にも、いわゆる時代の スタイルが影響を与えていると思われますか?飯島 最初は竹中設計部といった大きな組織の中に、先ほど申し上げたような現代建築家の3つのパターンが全てパッキングされている印象を受けました。これが例えば個々のアトリエ事務所を見ると、なかなか3パターン全部をつくっているところはありません。例えば、妹島さんのところはミニマル、コールハースだとフォールディング、ヘルツォーク&ド・ムーロン※6のところにいけばマテリアルが強く見られる。もちろんそれは微妙な話で、ピーター・ズントー※7ではややマテリアル系に近いミニマルなんですが。どちらかといえばマテリアルですかね。いずれにしてもアトリエですと、そのように軸足をどこかに置けるんですね。それが竹中設計部の場合は現代建築の傾向が一堂に会してしまっているような状態になっています。それに対して、いろいろなものを取り込んでいるんだから多様性があるという見方もできますし、逆にカラーが見えないとも言えます。そういった中で、今回拝見した作品の中には風景に対して何か共通する認識は、ぼんやりとですがあるようにも思います。無意識のうちなのか、ある部分のところから逸脱するとまずいという線引きがあって、例えば樂吉左衞門館にしてもそうですし、ある種壊れた風景に対して壊れたんだから仕方がない、という受け止め方はしないで、その壊れたものを補充し、あるいは再生していこうという点で、どういう役割をその建物が果たせるか、そこから思考がスタートしています。三上ビルもそうで、担当の方の説明の中の「ちょっと重いかもしれないけど」という言葉にすべてが表れているような気がしたんですが、やっぱり立地する町並みはすでに壊れているっていう意識は持っていて、ではそれにどう対処するか、それを考えている。三上ビルの場合、個として町の顔をつくろうと試みています。もちろん壊れているのだからそれと歩調を合わせればいいとする考え方があっていいわけですが、そうはしていない。一人で作っても町並みはできないわけですから、三上ビルにはむしろ一種の批評性の方が強い。本来こうあって欲しいなという願いや理想みたいなものがあって、そういったものがどうデザインに出てくるかがデザインの個性になっている。こういう意識というものはどの作品にも共通しているなというのは感じました。お話を伺っていると、篠原さんともコールハースとも違ったバランスの取れる最適解を模索するという意識においては共通していて、単にいろいろな現代建築の流れをある種パッキングしたのとは少し違う姿勢があるなと感じました。風景の制約の中で、できればこうあって欲しいという一つの理想形を設計者が示していくことでしか今の表現が成立し得ない、そうしたある種の理想と限界をみんなが模索しているのかなということです。それは今の現代建築全体の主流かというとそうでもなくて、アンリアルなものが出ている現在の状況においては、こうした傾向は一つの解答をちゃんと示しているなと思います。———アトリエの場合はあるスタイルで売っていかざるを得ないのが、組織には多様性を受け止められる中庸さというものがあるということでしょうか。飯島 でもその中庸が決して凡庸ではあってはならないわけで、そこが難しいところですね。その点で竹中設計部のような設計組織にはまだオリジナルな思考に行くことができる可能性があるというかも知れませんね。大学で国内外の近代建築史を講義していまして、戦後に国立劇場や日活国際会館ができたりと竹中工務店にはデザインでいうと輝かしいイメージや歴史があって、授業でも学生にスライドを映して白井晟一さんと一緒に並べて論じているんです。よく言われることですが、60年代に京都国際会議場と第一国立劇場の二大コンペがあり、できた建築は両方とも日本的なものをモチーフにしています。恐らく時代がそれを要請していて、伝統論争やメタボリズムといった流れが背景にあったのでしょう。そうした時代の先端に立った先輩から受け継いだ組織のカラーが竹中設計部にはあるのかな、と最初はいろんなことを考えたんですね。今、設計の現場で組織のカラーや伝統というものをどう位置づけて、受け継いでいるのか、興味深いところです。———そのような伝統の延長上で、あるいは三上ビル国立劇場 1966年Interview
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