DESIGNWORKS Vol.08
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ているかどうかだと思います。大組織の方も一生懸命向き合っていることは、僕もよく分かっています。でもフリーの建築家が注ぐ力のかけ方とはやはり少し違うのです。比重が違うのですかね。一般的にみれば、組織の作るものは高度だけどちょっとよそよそしく冷たいことの原因なのかもしれません。つまり、色々検討してくと破綻がなくなるでしょ。破綻しているところがないってことはやっぱり冷たいものになる。例えば藤森照信さんの建築はみんな好きだし、一般的に評価されている理由っていうのは、時代的なものですよ。わかりやすく大地とのつながりが表現されている。理想をいえば、もっとハイテクニックで性能も良く、藤森さん的な建築ができるかどうかですよね。例えば大規模な木造建築を可能にする技術が生まれた時、その時代性や新しさを取り込むことによって、法隆寺は作られた。だから法隆寺はある力を持った形を作り上げることの喜びにあふれているのだと思います。現代の高度で精密な技術によってはじめて本来的な人間を実現することができるんだ、という方向に向いていくことが、技術を本質化する、自由にしていくものだと考えれば、それを的確に示す言葉は「野性」の回復なんじゃないかと思います。———設計者の取り組む姿勢次第で、建築の可能性が左右されるということですね。中川 建築は施主のものだ、ということは絶対的なことだと僕も思います。それから、経済的にも機能しなくてはいけない。村野藤吾さんが言った「99パーセントは施主のものだが、村野にまかせたからには1パーセントは村野のものである」という言葉があります。でもその1パーセントは99パーセントを凌駕することがある。これが僕は正統なる道だと思います。そういう厳しさ、そのための修練、その情熱、色々なものが建築の意味だと思います。施主の味方になって、要求されることに全部答えながらなおかつ、やはり設計者がやるのだから「これはこの人がやったものだ」ということを極めていけばいくほど、これは絶対的な原理に近づいていくと僕は思いますよ。それをやってない建築は、ある面では優等生かもしれないけど、やはり永続的に時代を画すものにはならないと思うんです。象徴性・抽象化・洗練———本号で取り上げている千趣会本社ビルは、ヨーロッパのドーマー窓をもつメゾンのイメージを建築主に要望された経緯があります。建築に課せられた「象徴性」をどう解釈していくのかということについて、どうお考えでしょうか。中川 メゾンと言われたらそれだけでいい出来だと思います。ただ抽象化による象徴性というのは深みを持ってなければいけない。たとえばパリのオペラ座は、様式建築としてはそれほど素晴らしいものではないのですが、でもすごいですよね。新しいモダンなオペラ座を見ると古いオペラ座のほうが勝っていると思うのです。それは、比べられないのだけど、機能性とか材料性とか技術性とか、いろんなスカパー東京メディアセンター千趣会新本社ビルイナータス本社撮影:小川重雄撮影:小川泰祐撮影:母倉知樹ものの抽象度が僕は足りないと思っています。ほかにも、大書院と利休の待庵、どっちがいいとは言えないものになっているのはどうしてかっていうと、待庵はものすごく複雑な思想や動作や作法や背景の広大な空間などが抽象化されて二畳になっているから。抽象化っていうのは、省略されながら抽象化されてそこに凝縮されているということ。そういうプロセスをもっていれば、現在の材料であるパイプみたいなものでも可能性はあります。———ところで、竹中作品として一連の歴史的な流れのようなものを、先生は感じられますか?中川 僕の思い込みかもしれないのですが、竹中藤右衛門のように大工頭の家柄でゼネコンになった会社は意外と少ないですよ。商業資本とか人手稼業がゼネコン化していった会社はありますが、やはり建築を作ることに対する伝統が違うと思うのです。大工頭や宮大工は、当時の大建築家です。中世的な大工としての仕事の精神が中核にあると思うのです。ゼネコンの設計部では竹中にしかそのベースはないのでは。実際、そういうことをやってきたので、そこに中世的な職人気質の建築家が集まったのが事実だと思います。竹中大工道具館をはじめ、大工文化に情熱を注いでいることはすばらしいと思います。歴史や文化を踏まえつつ、高度な性能を備えた技術的な措置をした建築を作ることが、21世紀の建築だと思います。それができるのは大組織だし、竹中ならできるのではと思います。Interview
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