DESIGNWORKS Vol.08
6/36
———かつて大阪の設計部長を務めた岩本博行が、「アーキテクトは単発のユニークな建物であっても高い評価を受ける。われわれは組織だからそれは出来ない。そこに「洗練」という一言だけをきちっと入れて要をつくれば、組織として街をきちんと構成することができる」と言ったことがあるそうです。中川 「洗練」だけではうまくいかなくなってきているのではないでしょうか。建築が経済的な構造だけで決まってしまう、そこには洗練とか技術要素が盛り込まれず、ただ金額だけになってしまう。そのとき建築はどうするべきなのか。建築とはこういうものだということを訴える可能性を求められているわけです。洗練は大事であり基本であることはもちろん否定できない。しかし、経済という圧倒的な枠組になってしまった基本を打ち破り、凌駕することが大切で、それをできる力を養っていくべきだと思います。全体像としての「美」の再認識———20世紀のモダニズムの流れをふまえて今後の「建築の可能性」について歴史的な視点からお話を頂けますか。中川 なかなか難しいですね。建築というのは社会的相対との関係の中で出るもので、どうしても機能主義的、施設的なものは相対の中である位置を占めてくる、ということは紛れもない事実だと思います。宗教建築があったり、住宅建築があったり、相対としてそれぞれに役割があるのは間違いない。だけど、累積しているのものだと思う。その上に立って初めて現代的な課題、未来的な課題にいける。創造者としては、その社会的に蓄積している価値のなかに自在に融通できなくてはいけない。現代建築も、たとえば古代的な建築の「たおやかさ」みたいなものが必要で、その上に立たないと新しいものが作れないと思います。たおやかさって何かって言うと、古代建築が本質的に追求したもので、それはどういうものかということを現代の創造者も感受性として持ってなきゃいけない。手触り的なもの、一体化していくことへの喜びというものが、中世的な価値の本質にあります。近世的な価値は、もっと社会的なものと一体化したものです。経済的なものと形の美しさとか面白さが一体化しているとか。そういうものを前提にして、近代が成り立って未来が成り立つ。それを全部持っていればいいのかというと、そうではなく、それは一つのスタンダードとして客観的に社会の中に保持されていればいいんです。建築家は、その養分を吸いながら勝手に自分は何を取り入れ建設するかについての強い意志を持っていることが 大事です。———中世的な考えを見直すことで日本の建築が再起できるのでしょうか。中川 それだけではムリです。また、一人だけではない、さまざまな分野の人の協力姿勢によってしか、建築は作れない。ただ、野性と先進性の融合というのは、イメージとしていえば中世的なものを踏まえた新しい創造ということになります。それが建築建築は同時にどんなささいなものであっても一つの全体性であって、ある種の絶対性も持っている。だからそこの中に簡単にいえば、同時に「美」がないとおかしい。相対としての役割を引き受けると同時にそれ自体がひとつの全体性としての「美」があるかどうかだと思います。20世紀っていうのは、組織が非常に加速度的に広がっていって、さまざまに分化したことによって発展してきたことは間違いないです。でも本質的なものは変わらない。だから建築の役割は、それぞれの社会的相対的な役割を担うと同時に「美の実現」、その2つがあると僕は考えています。それが20世紀の中で困難になってきた。21世紀っていうのはやはり、多様化し見えなくなったものを再生すること、人間の本質とは何か、社会の本質とは何か、建築が担うことはどういうことかを考えていかなくてはいけない。そのなかにいかに全体性としての美をつくるかだと思います。———建築生産史の視点からのお話がありましたが、最近、近代との関係のなかで中世を見直す動きがありますが、どのように思わ れますか。中川 非常に原則的なことをいうと、まだ近代ですよね。ポストモダンっていうことはありえなくて。近代社会のなかでこれまで達成してきたものの上に立つしかない。ただ、建築は自分を支えているものに対して、どうリアクションできるかが建築の勝負だと考えています。その時に中世的なものが重要になる。僕は基本的には、価値っていうのは古代から竹中工務店 大阪本店Interview
元のページ
../index.html#6