DESIGNWORKS Vol.12
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としたら、例えば竹中工務店の東京本社屋は、素晴らしいと思います。オフィスが人間の空間ではなく、労働の空間であり、それがロボットでもできる労働だとすれば、そもそも空間自体が不要になります。そこに、何をしでかすか分からないノイズとしての人間がその空間に存在するのであれば、それをいかに人間にとっては快適に、経済にとっては安全に制御するかといったことに、設備計画も含めた設計行為の全神経が注がれるべきでしょう。近代的労働が人間的活動にどのくらい接近しうるものなのかという問いに、例えば東京本店社屋における穴蔵のような個別的空間は、十分に現実的な調停になりうると感じました。オフィスが人間が集まるといったことによって家=オイコス的な要素が不可避的に生じてしまう場合、そこに人間の動物的な側面と、建築という非常で無機的なものをどう組合すか、という問題が生じるわけです。現代においては、そのヴァリエーションが昔に比べて非常に複雑になって、より細かい操作が求められるという気がします。装飾とダンディズム———アドルフ・ロースは「建築」の初源は墓であると言った、とのことですが、「人間のための建築」という二律背反を、彼の場合はどのように考えているのでしょうか?中谷 ロースは例えば、「装飾と犯罪」という有名な論文を書きました。それは1908年ぐらいの頃の講演がもとになっているらしいです。装飾を攻撃したその論文は、一般に、モダニズム的な無装飾の建築を称揚した最初期の論文だとされているわけです。ところが実際に読んでみると、かなりの部分で装飾のことが記述されていて、しかも、それを軽蔑するけれども決して否定しない。あげくの果てに近代人は職人たちに装飾に変わる喜びを与えることはできないであろうと自己批判の風情なのです。その分裂的な口調に多くの読者が当惑するわけです。それが分裂でないとすれば、彼の論における装飾は特殊な性格を帯びてきます。つまり、ロースにとって装飾というのは、いわば必要悪なのです。その意味で、何をしでかすか分からないノイズとしての人間と、いたしかたのない装飾とが、パラレルなものとして考えられるわけです。言わば、装飾は人間にとって犯罪ではなく、〈原罪〉なのです。ちょうどイチジクの葉のような。つまり、つけてないと怖い、恥ずかしいという感情が初めにある。無垢な神の子に戻るためには、そのイチジクの葉っぱを捨てなければならない。しかし知性を持ってしまった現在の状態でそれはできない相談である。それゆえにこそイチジクの葉っぱを外すことが、近代人にとっての最後の挑戦のようにもなる。そういうわけでロースは装飾を頭ごなしに否定しないのです。彼の装飾批判には人間存在を巡る深い洞察がある。———今回視察いただいた建物で言えば、「松坂屋パークプレイス」や「新日鐵君津製鐵所本館」におけるファサードや仕上材のように、都市における装飾のあり方を、どう考えておられますか。サンマークスだいにち中谷 装飾に関していちばん重要なのは、「ダンディズム」における装飾の特殊な振る舞いです。ダンディにとっての服飾の理想は、人並みに紛れることにあります。つまり「目立たない装飾」です。ダンディズムの中核と言っていい。しかしこれはむずかしい。何か物を作っている以上は、必ず「意味」が表現されてしまう。しかしながら、それを完全に隠し自分を消すかのようにその意味を消去しようとすると、逆にその行為自体が目立って、ようは装飾化してしまう。例えば、自分を消そうと真っ白な箱を作ったら、それは意味が強いでしょう。だから、この街並みの中に、誰にも気づかれないものを作ることは、むずかしい。そしてそれこそまさに、ダンディズムにおける装飾のあり方です。例えば村野藤吾※2の設計した「森五ビル」(1931)も、気付かずに通り過ぎてしまう。冗談ではなく、何回も素通りしてしまって気がつかないのです。けれども、よく見るとその窓枠の処理などは非常に技巧的である、そのような態度が、いわゆる装飾からは図抜けている、という気がします。———それは、一般に考えられている表層デザインやファサード計画とは反対の発想ですね。中谷 そう。いちばん面白いのは、隠すというよりは、見えているのに隠れている、見えているのに見えないデザインとか、そういったものだと思っています。それはある意味で、都市建築の究極の理想だと思います。民家調査をしていて分かったことですが、集落というものは、全体としてある種の表現をもつけれども、個々の民家がもつ質は同じだから、森五ビル(設計 村野藤吾)Interview

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