DESIGNWORKS Vol.12
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いることが融合され重なり合って、ある種の質を形成していった結果だと思います。村野藤吾の有名な言葉に、「建物の99%は建築主のものだけれども、1%は村野のもの」という言葉があります。しかしその意味はちょっと誤解されているのです。というのも、村野が、「その1%は村野でもどうしようもできない」と言っているからです。これは何を意味しているのか。つまり、この1%というのは、村野の意思であると同時に、村野の意思を超えた批評的視点でもあると。これは、ロースが言う、装飾に対する両義的な目と非常に近いと思います。ロースも村野も、様式建築もやればモダニズム建築もやるのだけれど、その双方を同時に相対化できるような、ある批評的な1%を自分の中に持っているわけです。そうでなければ他者のための建築がつくれるはずがありません。問題のなさという「問題」———都市と建築のつながりという観点から、各都市に拠点を構える大手の設計組織の社会に対するあり方について、どのようにお考えでしょうか。中谷 大阪を例にとると、初めて御堂筋を歩いたときの感動は忘れられません。それは、竹中工務店のみならず、建設会社や大手組織設計事務所が作り続けた御堂筋が、つまり民間が持っていたポテンシャリティーに大きく依存していたことに気がついた。それが先ほどのダンディズムと関係するのですが、決してうわべを装飾したりはしない、でも非常に上質なもの、というものが確かに大阪には流れていた。万博以降は知りません。一方で東京は、テーマを捏造するのも簡単な都市だな、という気はします。それを新しさとしてとらえてしまうデザイナーもいるだろう。大阪は未だに、昔のグリッドが残っていて、それが生かされている。それは創造性がないということではなく、「名づけない質」とも関係するのですが、「問題がない」からです。大学でも学生に言うのですが、問題がなかったら何もする必要なはい。問題があれば解けばよい。ということは問題を発見するということが新しいデザインを作り出す基本条件なのです。問題がないということは、様々な与条件が総合的なバランスをとって、言語化しえなくなるほどの、絶妙な調和的関係に「陥っている」ということなのです。設計者が与条件を与えられたときに、それに対して素直に答えられるなら、そこに設計上の問題はないということです。設計という慣習があるだけです。僕は慣習をまずは重視します。だけど一方で、そこに「何か」をあたえなければいけないということは、新しい問題を見つけない限りできない。そしてそれこそがデザインの核心ではないか、というふうに僕は思います。———本日はありがとうございました。(聞き手:米正 太郎・関谷 和則・秋山 裕子田口 裕子・岡田 朋子)中谷 礼仁(ナカタニ ノリヒト)/歴史工学研究家1965年東京都生まれ1987年早稲田大学理工学部建築学科卒業1989年同大学院修士課程修了1989-92年清水建設株式会社設計本部1992-95年早稲田大学大学院後期博士課程1994-97年早稲田大学理工学部助手1996-99年早稲田大学理工学総合研究センター客員講師1999年大阪市立大学工学部建築学科建築デザイン専任講師2005年-同助教授2007年-早稲田大学理工学術院創造理工学部建築学科准教授2010年-日本建築学会発行『建築雑誌』編集長著書『セヴェラルネス 事物連鎖と人間』(鹿島出版会、2005年)『近世建築論集』(共著、アセテート、2004年)『国学・明治・建築家』(蘭亭社、1993年)他設計作品『甲羅ホテル』(横浜、インスタレーション)『63』(大阪、長屋改修)他※1 アドルフ・ロース(Adolf Loos):1870-1933年。オーストリアの建築家。ドレスデンで学んだ後、アメリカに渡りシカゴの高層ビルや実用的なデザインを見て大きな影響を受けた。オットー・ワーグナーの「芸術は必要にのみ従う」という機能主義の主張を更に徹底させ、「装飾は罪悪(犯罪)である」と宣言した。代表作ロースハウス(1910年)は、装飾をそぎ落とした建物で、モダニズム建築の先駆的な作品である。※2 村野藤吾:1891-1984年。佐賀県出身、早稲田大学卒。戦前、戦後を通して、モダニズムの理念を基調としながらも様式性や装飾性を湛えた独特のデザインを残した。代表作として世界平和記念聖堂(1954年)、日生劇場(1963年)などがある。※3 クリストファー・アレグザンダー(Christopher Alexander):1936年-。都市計画家、建築家。イギリスで数学・建築を学んだ後、アメリカに渡る。古き良き街に潜む「名付け得ない質」を見出し、253のパターンとして著書『パタン・ランゲージ』(1977)で示した。Interview

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