DESIGNWORKS Vol.19
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Interview馬場璋造氏に聞く日本近代建築の潮流と竹中工務店2011年はメタボリズム展が開催され、日本近代建築の1つの節目の年でした。また、故 竹中鍊一相談役の生誕100年でもあります。本日は建築情報システム研究所の馬場さんに、次なる時代を予感するお話を伺いたいと思います。インタビューに先立ち、東京の新飯野ビルディング、大阪の塩野義製薬医薬研究センターをご覧頂きました。また、竹中工務店だけでなく、建設業、設計施工、日本の設計活動全般についてのお話も伺いたいと思います。 竹中工務店設計部における「自由」と「重石」馬場 1961年、村松貞次郎※1先生と浜口隆一※2先生の「設計組織ルポ」という記事が始まったのですが、1959年に私は新建築に入社し、企画の頃から一緒にやっていました。その企画が立ち上がった背景は、個人の建築家が社会的に活躍している一方で、大学卒の優れた設計者が建設会社の設計部に入社するようになり、潮流が変わってきている年代だったからです。その状況を村松先生が思い切りよく分析して、独自の設計施工論を書き、浜口先生とディスカッションしていたのを、よく覚えています。当時の私は、建設会社の設計部も随分良い作品をつくるようになり、当時の一流の建築家と渡り合えるようになってきている、という印象を持っていました。国立劇場のコンペ、20年後の第二国立劇場のコンペにおいて、竹中工務店が一等をとったあたりから、個人の建築家だけが活躍している状況から、何か抜け出したものがありました。それから時代が変わっていく中で竹中工務店の作品いわゆる「竹中らしさ」も、それを感じさせるところにあったと思います。ディテールは当然のようにきっちりしているし、外観だけを見てもプロポーションで竹中らしさを感じるんですよね。シャープであり、我々が学んできた中では一つの最良のプロポーションを持ち続けている。それを音楽で言うと、一分音符だけではなくて、二分音符、四分音符、十六分音符まで、すべての音で表現されている状態です。例えば塩野義製薬医薬研究センターも十六分音符ぐらいまで使いきっている。ただ、十六分音符や三十二分音符ばかりで作曲するような曲になると、今度はコントロールが難しくなる。四分音符、八分音符を組み合わせて十六分音符を活かすためには、デザインもどこまで細かくしてよいのか、組織としての手綱捌きが必要じゃないかなと感じます。———国立劇場に入選したころは、東京タワーや南極基地などの、技術面が先行するプロジェクトも並行して追い求めていた時代でした。そのような側面も、我々の作品づくりに影響を及ぼしたと考えています。馬場 アトリエ建築家に比べ、経済的なことが強く作用しやすい側面がありますよね。経済的な利益の優先のための場合もありますが、建設会社の設計部のほうが割合純粋に技術とデザインを結びつけて考えられる。竹中工務店の場合、「最大よりも最良」、常に質の良いものを求めていくという姿勢が基本的にある感じがしますよね。設計でも施工でも、チャレンジ精神もある。その精神がなくを見続け、国立劇場の頃とはまた違った方向へ、一歩を踏み出しているなと感じています。今回拝見した塩野義製薬医薬研究センターは、デザインを随分自由に展開しているように感じました。外装と内部の研究施設との関係、外観はルーバーだけではなくて、様々な要素をいろんな形で使っていますし、内側の空間も複雑にコントロールされていました。「設計組織ルポ」をやった時から変わらないことですが、大学を卒業して10年位ごろの人を比較すると、建設会社設計部と独立した建築家では、前者の方が活き活きと設計しているように思います。一方で、組織が伸びる際には、自由さの一方で、「重石」といいますか、上層のリーダーが下の社員たちをしっかり抑えていて、それを跳ね返すことで、本当に伸びるという場合があります。その「重石」を重視していたのが、竹中藤右衛門さん、竹中鍊一さんだったと思います。お二人とも言葉よりも雰囲気で周囲の身を引き締めるようなところがありました。見通されてしまうというか、無言のプレッシャーを感じさせる面があったと思います。設計部に来られる時だけではなく、建設現場に来られる時でも同様であったと聞いています。自由に設計させているようでも、やはりひとつの締めみたいなものがあったのです。自由と締めのバランスをどう取っていくかというのが、竹中工務店の今後の課題だと感じています。個人の建築家の場合には、その人の資質によってスタッフがちゃんとまとまれば、「重石」のようなものが出来ていく。塩野義製薬医薬研究センター SPRC4国立劇場第二国立劇場写真:古川泰造Interview
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