3 エリアは拡張する橋爪 梅田地区では、戦後復興から高度経済成長期に建設された再開発ビルが、再度、建て替えの時期を迎えつつある。梅田1丁目1番地計画だけではなく、エリア全体の「再再開発」の構想が必要になってきています。梅田のような巨大な商業集積では、周縁部に常に新たな賑わいが生まれ、ジェントリフィケーションの結果として、やがて連担しながらエリアは面的に拡張します。ジェントリフィケーションとは、居住者階層が向上して再開発や建物改修が進み、エリアの質も向上する現象のことと言って良いでしょう。 私はミナミの盛り場で育ちました。私が中学生の頃、心斎橋商店街のバックヤードである倉庫街が商業施設として更新される過程で、「アメリカ村」と呼ばれる若者の街ができてきた。当初は若者向けの雑貨屋や輸入衣料店などがうめきた2期(完成予想パース)写真:竹中工務店関西独自の建築文化を生み出していました。施主と建築家や施工者との関係も全く違っていました。関西の建築界の気風すなわち、創意工夫や新しいものをよしとする気風はその人間関係から生まれたものでしょう。1920年代から30年代、経済的に豊かであった「大大阪の時代」には、欧米の最先端の事例に学びつつ、大阪では施主の好みを反映した華やかな装飾を特徴とする建物が多く建設されました。当時の建物群が、今も大阪らしい建築をイメージさせる源泉になっています。結果として建設されたビルディングの総体が街の「建築文化」だとして、今われわれがつくっている市街地は果たして大阪らしいのかという自問が必要です。集積しましたが、やがて大きな資本が入り更新が加速されました。賃料が安く若い人が集まるブームタウンは、やがて投資の対象になります。近年だと、裏難波や天満市場、豊崎、中崎町、福島など、キタやミナミの商業集積の周縁にある住宅地に、おしゃれな飲食店が集まる界隈が生まれました。エリア全体の用途や価値が変化しつつあります。梅田の商業エリアも面的に拡張、外縁部に新たな界隈を生み出しています。また、うめきたの2期も工事が進んでいます。そこにあって地区の中心に梅田1丁目1番地計画という巨大な複合ビルが出現したことで、エリア全体のリノベーションが一層促されることになるでしょう。ただ更新が進むにつれて、かつての雑然とした雰囲気や、各時代の建物群が織りなすことによる多様性の面白さは整序されていきます。 そのジェントリフィケーションを「計画する」ことは可能でしょうか。橋爪 マンハッタンのハイラインは、計画的にエリア全体を変えようとした事例です。またブルックリン橋周辺の事業では、倉庫街に若いアーティストのアトリエや住居を誘致、高さ制限も緩和しつつエリア全地の価値を高めました。トリガーとなるプロジェクトを立ち上げて、周辺の賃料の安いエリアの用途を変えていく。多くの手が入って、違うアイデアが競いあう結果、多様性を計画的に生み出すことが可能になるでしょう。そういうプロジェクトを起こしていくのもデベロッパーの仕事だと思います。必要なのは段階的に、必然的に、多様性を生み出す計画です。私は仮設利用などの非計画性を計画に内在させるプログラムが必要であると主張してきました。精緻な計画ではなく偶発的に生まれた空間を取り込む余地を残した計画論や、いつまでたっても完成しないということを事前に読みこんだメタレベルのプログラミングがあって良いと思いますが、日本では難しいように思います。4 ストリートと自由橋爪 話は変わりますが、ターミナル型の商業エリアである梅田の最大の弱点は、昼間人口が多く人が往来するけれど「中心」がないことです。だから梅田1丁目1番地計画の特性は何かと考えたときに、私はまさに「1丁目1番地であること」だと考えます。ここが梅田の中核であるという物語がほしい。新たな「梅田らしさ」をどのように生み出すのかが問題でしょう。例えば西梅田の再開発は時代を先取りしていたと思いますが、コンセプトである「ガーデンシティ」は浸透しなかった。グリコサインをのぞむミナミの戎橋のように、あるいは、あべのハルカスのように、ここにしかない、梅田にしかない他と違うアイコンが必要です。村野藤吾設計の給気塔などは、機能的かつシンボリックですが、誰もが親しく思うアイコンではない。マーライオンや渋谷のハチ公、グリコの看板を越えるアイコニックな造形と象徴、さらにはシンボリックな広場などの装置が必要です。梅田だとかつては「人民広場」と呼ばれたコンコースや「泉の広場」など地下街の広場空間、および大阪駅と阪急、阪神を連絡したデッキなどが、交通機能を備えた広場的な空間であったと思います。04Interview
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