2023年 とおり町 七夕祭り写真:kazunori nomura前田 近年建築家の職域が広がってきていることをよく感じます。設計の過程でワークショップを通して意見を掬いながら共有する設計手法や、竣工後の利用や運営へ向けた働きかけだけではなく建築家自身が運営に関わる事例も増え始めています。建築家の職域の広がりが意味するものは、資本主義のもたらした産業や社会からの信頼感が揺らぎ始めている裏返しかもしれませんし、あるいは成熟した社会がもたらす個の多様さがもたらしているものなのかもしれません。どちらにしても建築家は近代以降、常に社会の変容に対峙しながら新たな取組みに挑み社会と共に歩んできた歴史があるので、今の時代にあったリーダーシップの必要性が問われているのだと思います。商店街とは最近5年ぐらいあまり関わっていなかったんですが、今年から私が所属している近畿大学工学部の研究室の学生たちがフィールドワークを通して社会との接点を図る取組として、商店街で毎年開催している七夕祭りを、今年はSDG’sの視点で行燈による「七夕祭り-願いをとどける天の傘」と題してアップデートしました。もともと七夕祭りに関わりをもっていた市内の子ども園に声がけし、こどもたちと一緒にできることを考えました。はじめに廃棄傘に着目し、透明な傘にこどもたちに絵を描いてもらい、どこにもない付加価値をもたせました。次に学生のアイデアを基に廃棄される牛乳パックの表面を剥がして和紙のような行燈をつくり、子どもたちに絵や願い事を書いてもらいました。そしてワイヤーと傘の取合いのディテールを考え、商店街を施工した建設会社その費用は市内の企業を回り説明をしながら協賛を取り付けていきました。商店主の方は学生たちから多くの元気をもらったようで想像以上に色々04協力のもと、取り付けを学生たちと行いました。Interview聴竹居写真:古川泰造な効果を生みました。街は誰かが手を掛けないと廃れていく動的なものですが、そこに建築家の重要な役割があることを強く感じました。自分の街でなければ中々ここまでの取組はできない気がしますが、多くの市民の方々と関係者あわせてとても充実した大きなイベントをやり遂げました。 地方では建築家が持っている力を発揮できる可能性が高いんでしょうね。みんなのマインドに火をつけてくような、仕掛け人的な建築家の存在が街を大きく変えていくと思います。前田 設計をやっていると、目の前に様々な難題の扉が立ちはだかります。辛いと思わず、その難題の扉をいかに楽しみながら開くことができるかがとても重要だと思っています。世界的な写真家である故二川幸夫さんの講演会で、若かりし頃に日本の民家の撮影で行脚していた時の話を聴きました。飛騨高山の集落や民家を撮影させてもらおうと声をかけても、撮られる民家の人はいい気がしないので返答がない。凍えるような寒さの中、三脚を立てて数日辛抱強く待っていたある朝、「朝ご飯食べたの?中入って食べ」って声をかけてくれて、そこから撮影をさせてもらったお話をされていました。講演のなかで二川さんの「死ぬような思いのなかで楽しみを見いだす」という言葉が印象的に残っています。熱量をもってやればやるほど大変な状況に自らを置くことになりますが、そういうマインドでいないと継続していいものはなかなか生み出せないですよね。後山山荘と藤井厚二 藤井厚二設計の聴竹居をWORKS61号鞆別荘(改修前)写真:UIDで取り上げました。先生が改修を手掛けられた「後山山荘」も藤井厚二設計ですね。どのような経緯で実現したのか教えてください。前田 藤井厚二の実家は豪商の家柄で、兄の13代目与一右衛門が鞆の浦の後山の中腹に恐らく大正時代に建てたのがこの別荘の始まりです。藤井厚二が大山崎で手掛けた自邸の聴竹居との共通点がいくつもあるので藤井厚二の設計ではないかと推察しています。なかでも、特徴的なサンルームがとても酷似していますからね。しかも鞆の浦の別荘は母屋の下屋に取りつくかたちでつくられており明らかに増築であることも伺えます。きっと、聴竹居を与一衛門が拝見し、弟の厚二に同様な空間を依頼したのではないかと想像しています。戦後の20年ぐらいまでは使われていたようですが、その後は手入れもなく朽ちていったものと思われます。2009年に藤井家が手放し、福山出身で東京在住のクライアントが取得しました。当初は建て替える予定でしたが、GALLERY A4での藤井厚二展を見て「これは藤井厚二のものなんじゃないか、であれば建築家に頼んだ方がいい」ということになり、私のところに話がきました。藤井厚二の設計したものは福山には存在していないと思っていたので何とかこの建築を残しつつ施主の要望を加味したリノベをしたいと考えました。クライアントにはこの建築が残せないなら引き受けられないことと、期限のない時間を頂きたい旨を了承していただき始まりました。ある種ビジネスとはかけ離れた理屈抜きのプロジェクトで、なんとかして遺すという執念で竣工を迎えるまでに4年という年月が流れていました。当時は建物のほぼ半分以上瓦解していたため、どう残せるのかということから考えました。現場監督時代の信頼できる職人さんに見てもらいな
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