鷲尾九郎  WASHIO Kuro

1893年(明治26) 新潟県に生まれる
1917年(大正6) 東京帝国大学を卒業後、藤井 厚二の勧めにより竹中工務店入社
1926年(大正15) 設計部職制制定後の大阪本店初代設計部長
1937年(昭和12) 取締役
1942年(昭和17) 常務取締役
1947年(昭和22) 専務取締役
1985年(昭和60) 逝去

竹中藤右衛門のよき片腕

1926~42年まで17年間に渡り設計部長を務め、非常にバランスのとれたよきリーダーとして数々の作品を世に送り出しました。

設計においてはプランを重視しながらもマネジメントを自ら担当し、デザイン力のある部下にある程度意匠を任せることで作品としてよりよいものを創り出すことに腐心していました。特にビッグプロジェクトや難工事、短期工事での調整力、推進力には定評があり、その真摯で篤実な人柄と芯の強さとで、竹中藤右衛門からも片腕として強い信頼を得ていました。

1947年に専務取締役に就任後は竹中家代々の作品の調査に尽力し、その成果を1959年から3年半に渡り社報に発表、1986年2月に「遺構今昔」と題した一冊の本(TAKENAKA BOOKS2)にまとめられています。

白鶴美術館
1934
神戸市
東京宝塚劇場(現存せず)
1933
東京都

いずれも後輩である小林三造、石川純一郎に意匠面を担当させ、鷲尾自らはプランニングやマネージメントに携わることで2人の代表作を実現させました。石川純一郎は後に「難しいところは鷲尾さんがみな処理してくれて、私はおいしいところだけ楽しませて貰った様なものでした。」と述べています。建築は意匠面がクローズアップされることが多いですが、組織力を最大限に発揮することに長けた鷲尾の存在があってこそ、実現した作品と言えるでしょう。

堂島ビルヂング
1923
大阪市

大正の終わりから昭和の初めにかけて全国で多くの高層ビルが建てられました。なかでも1923年に堂島川に面して建てられたこのビルは、同じ年に東京駅前に建てられた「丸の内ビルディング」に比肩する西日本を代表する名建築です。

昭和の初めに御堂筋が拡幅され、そのモダンな姿の視認性はより高まり、大阪百景をテーマとした当時の絵葉書にも採用されています。

機能的な特色としては「堂ビルホテル」というホテルが入居していたことです。現在では珍しいことではありませんがホテルがビルの中に入居するのは日本では初めての試みでした。ホテル以外にも付随施設としての食堂やバー、結婚式場、また診療所や婦人団体の事務所など様々なテナントが入居しており、都市的な機能を集めた画期的なビルでした。

外装は何度か改装されたため、残念ながら当時の面影は残っていません。

宝塚大劇場(現存せず)
1924
兵庫県

建築音響学がまだ確立されていなかった時代に壁面の仕上材料に苦心し、また客席床勾配決定のための設計法を模索するなど、鷲尾は劇場建築の機能面の品質向上に力を注ぎました。1935年の火災で屋根が焼け落ちた時も中心となって復興工事に尽力し、わずか2ヶ月で完成させ建築主の期待に応えました。復興後の舞台稽古で少女歌劇団の「女生徒の目には涙がうるんでいた」と鷲尾は述懐しています。