伴野三千良 TOMONO Michiro
1907年(明治40) | 静岡県に生まれる |
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1933年(昭和8) | 早稲田大学を卒業 |
1948年(昭和23) | 村野建設事務所を経て竹中工務店入社 |
1953年(昭和28) | 東京本店設計部長 |
1960年(昭和35) | 取締役 |
1967年(昭和42) | 常務取締役 |
1999年(平成11) | 逝去 |
東京本店設計部発展のキーパーソン
1933年早稲田大学卒業後に村野藤吾の事務所にて研鑚を積んだのち、「日活国際会館(1952年)」を担当するため1948年竹中工務店に入社します。
2004年に解体された東京日比谷の「日活国際会館」は、技術的には潜函工法の採用、意匠的には明快で開放的な立面構成や、東西端で表情の異なる大胆なコーナーデザイン等によって、敗戦後混迷を続けていた建築界に衝撃と希望を与え、また都市的規模のヴォリューム、ファサード表現のあり方にひとつの指針を与えることとなりました。
一方で、32mの正方形プランと均等グリッドによる平面計画と、チャコールグレーのアルミパネルにグレーの熱線吸収ガラスを嵌め込んだ立面計画が特徴的な「文芸春秋ビル(1966年)」は、動的で開放的な日活国際会館の外観意匠とは非常に対比的であり、伴野のデザイン力の巾の広さを感じることができます。
日活国際会館(現存せず)
1952
東京都
日活本社を含むオフィスを低層部に、133室のホテルを高層部に擁した戦後初の大規模建築です。パステルカラーのタイルと白ペンキのスチールサッシュと大きく確保されたガラス窓が明快で開放的な立面を構成し、また、直線とアールという東西端で表情の異なる大胆なコーナー意匠が、敗戦後間もない日比谷界隈の都市景観を一変させました。同時に、潜函工法の採用によって悪質な地盤条件を克服するなど、技術面においてもその革新性が認められます。
文芸春秋ビル
1966
東京都
老舗出版社の本社ビルに求められるモニュメンタリティと格式を如何にしてひとつの作品として結実させるか、という課題に対して、2.4mグリッド柱間にチャコールグレーのアルミパネルとグレーの熱線吸収ガラスが嵌め込まれた端正なファサードによって明快な回答を提出しています。また、換気スリット内蔵の水切目皿がアクセントを効かせるなど、建築と設備の意匠的統合という面においても革新的な試みがなされています。
文芸春秋ビル内観
内部空間は2.4m角のグリッドで構成されており、照明器具と空調吹出口をそれぞれに配置し、1室の最小単位として2.4m×4.8mの使用が可能となっています。外観を特徴付けるポツ窓は内観においては2.5m強の天井高さまでの開口部となり、執務空間に十分な採光をもたらしています。