小林三造  KOBAYASHI Sanzo

1918年(大正7) 名古屋高等工業学校を卒業後、 竹中工務店入社

竹中における「和風」の源流

小林三造は多くの住宅作品を手がけていく中で、伝統的な和風意匠を近代的な機能、工法、デザインに取り込む術を習得し、「白鶴美術館(1934年)」など公共的規模の作品においてもその実力を如何なく発揮しました。それらは建物実体ではなくその経験において「日本的なもの」を感受させるような、戦時下という時代に同伴した小林独自の作品的質を形成しています。

個人としての小林は、茶の湯の造詣も深く、俳句や俳画を趣味とし、深い教養にあふれた人柄であったという記録も残っています。岩本博行は後に、小林の下でフリーハンドのスケッチを図面化する作業を通して和風建築の知識とディテールを徹底的に叩き込まれたと述懐しています。

小林三造が手がけた一連の和風住宅

小林三造の下で和風住宅の意匠を学んだ岩本博行は、小林のフリーハンドのスケッチを何度も修正しながら清書することを永い間続けることで「おぼろげながら、住宅というものは、そのようにするものであるのか、と分かってゆく」と述べています。言葉だけでは伝えきれない思想や作法を小林は身をもって後輩へと伝えていったのです。岩本はまた、「(小林三造は)吉田五十八に匹敵する人だと聞いたことがある」と述べていますが、これは作風は違いますが日本の伝統的な建築を現代的な感覚で表現した近代数奇屋建築の大家である吉田五十八の「和」と「近代」に対峙する姿勢やその技巧性を指すものであると考えられます。

西本願寺大谷本廟守真所
1936
京都市

一連の住宅作品の設計を通じて培った和風建築の膨大な蓄積を、公共的規模の作品に展開しました。日本の伝統的な社寺建築の意匠を、構造体から細部意匠に至るまで鉄筋コンクリート造という近代的素材で表現することによって、和風意匠の新しい可能性を開くことに成功しました。

揚輝荘「聴松閣」
1937
名古屋市

揚輝荘は松坂屋百貨店の創業者・15代伊藤次郎左衛門祐民氏が名古屋市郊外の約一万坪の敷地に造営した別邸です。「聴松閣」は30棟以上もの建物群から構成されていたこの別邸の代表格ともいえる存在で、長年設計者不詳でしたが、このたび名古屋市に寄贈されたことをきっかけに現存する図面に残されたサインを調査することによって小林三造の設計であることがわかりました。和風の屋根を乗せながらも、石積みの柱を持ったポーチや自然木を真壁風にあしらった外壁など、多様な意匠や様式をとりいれた建築で、三造の器用さと造形的な幅の広さが伺われます。

白鶴美術館
1934
神戸市

「鶴翁」こと白鶴酒造7代嘉納治兵衛氏の東洋古美術コレクション収蔵を目的として設立されました。一見するとその銅板仕上げの瓦屋根や仏教伽藍のような配置計画に「和風」を見出すことが可能ですが、壁と天井の食い違い(西欧古典主義の内部壁仕上げと和風の格天井)、ファサードの対称性の不徹底(シンメトリでありながら階段室が付加されていること)など、建築的要素や様式の混在や矛盾が随所に認められますが、そのような複数の様式を「渡り廊下」に代表されるような諸要素の関係性で繋ぎとめる、新しい空間のあり方を切り開きました。

白鶴美術館
1934
神戸市