藤井彌太郎 FUJII Yataro
1913年(大正2) | 京都帝国大学土木科卒業後、 竹中工務店入社 |
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1926年(大正15) | 設計部計算部長 |
1927年(昭和2) | 逝去 |
構造設計の先駆者
藤井彌太郎は日本の構造学の権威・日比忠彦の推挙により竹中工務店に入社します。
黎明期の設計部で、藤井厚二や鷲尾九郎が高層オフィスビルをつぎつぎと手がけていくことができたのは、構造設計スタッフの採用があったからです。1924年青柳貞世が入社してくるまで、竹中作品の構造計算をすべて手がけています。
当時、鉄筋コンクリート構造はまだ不安定な先進技術でした。藤井はこの技術を日本に定着させる上で大きな足跡を残したと言えます。現在まで脈々と繋がる竹中における構造設計の基礎を築いた人物と言えます。
1926年設計部計算部長に就任しますが、結核を患い、翌年12月5日、36歳の若さで亡くなりました。
宝塚大劇場内観(現存せず)
1924
兵庫県
鷲尾九郎が設計を担当。固定席4200、舞台間口27m、舞台幅38m、奥行20mの大劇場空間を構造設計技術によって実現しています。
朝日新聞社東京本社(現存せず)
1927
東京都
分離派の旗手・石本喜久治の代表作として有名な建物です。敷地形状は五角形で、複雑で巨大な多機能ビルであるなど、平面・断面計画が極めて難しい設計になっています。そうした建築設計に、藤井彌太郎の構造設計は見事に応えています。
1981年から順次解体され、跡地には当社設計施工の「有楽町マリオン」が建ちました。
堂島ビルヂング
1923
大阪市
堂々たる高層ビルとして淀屋橋の北側に現存する「堂島ビルヂング」は、RC造で建てられています。一方、同じ年に建てられた東京の「丸の内ビルディング」(設計:桜井小太郎)は、アメリカ式オフィスビルの主たる構造だったS造が採用されていました。東京ではアメリカ式のオフィスビルがS造で次々と建てられていた大正時代に、当社は関西でRC造で高層ビルを建てていたのです。しかし、1923年の関東大震災を契機に、RC造に比べて被害のひどかったS造は、その後しばらく使われなくなっていきます。
外装は何度か改装されましたが、80年以上を経た今もしっかりと建っています。